(写真は特別な許可を得て撮影。会期中は撮影不可です)
かねてよりテレビや新聞雑誌でも話題ですが、やはり実物の存在感はケタ違いでしたね〜。これは生で見たほうがいいと思います!

はっきりとは言ってないけど、都内展示は実質的にこれが最後みたいです
壁画の詳細と、キトラ古墳そのものの疑問も解けたのでそのへん中心にレポートします!
1.現代人をも魅了する「フニャ線」
キトラ古墳の石棺内部は漆喰が塗られてその上に壁画が描かれています。
南面に朱雀、西面に白虎、北面に玄武、東面に青竜という「四神」が配され、その配下に十二支が描かれる。
天井面には星図が描かれ、当時の宇宙観と死者への弔いのかたちがわかります。
ま、そういった説明は現場で丁寧になされてるので、ここではさらっと流しますね。
これらの壁画は、7世紀末から8世紀初頭というから、国内最古級の絵画と言えます。
同時代の絵画は、おとなりの高松塚古墳壁画や、法隆寺金堂壁画がある。大学で東洋美術史を学んだとき、この時代の絵画の特徴は、「鉄線描」と言われる線にあると習いました。太さの抑揚がない、硬質な線による描き方です。
参考:「飛天」奈良文化財研究所・飛鳥資料館
そこいくと、キトラ古墳の画は少しちがう。白虎の絵なんかよーく見ると、ふにゃっとした線が見られます。それがまた人間的な温かみを感じて、親しみがもてますね。
博多に行って、バリカタの豚骨ラーメンもいいけど、じつはフニャ麺のうどんがおいしい。そんな感じ伝わるでしょうか。つたわれぇ〜(祈)

白虎図。狭い石室で、画工さんが汗水たらし一生懸命描いてたのかと思うとグッときます!
2.東西比較! 石棺壁画 vs フレスコ画
また、漆喰に描く壁画の技法で私たちになじみあるのが「フレスコ画」ではないかと。
フレスコ画って、ほら、これですよ。見たことあるでしょ。

あのスペインのおばさんのやつ
同じ壁画ですが、東西で技法が異なるそうです。
●フレスコ画:
漆喰が乾かないうちに絵具(水性)で描き、漆喰に染み込ませる。
●キトラ古墳壁画:
漆喰が乾いてから顔料絵具で描く。
つまり、インクジェットプリンタの「染料タイプ」と「顔料タイプ」のちがい、みたいな感じですかね。
フレスコ画は絵具が壁に染み込むことで堅牢性が高まりますが、古墳壁画はやはりもろそうな感じではあります。
さらに、キトラ古墳壁画のデッサン法にも注目。
まず下絵を紙に描き、赤い紙をはさんで壁にあてがい、上からなぞります。ちょうどカーボン紙で写し取るのと同じ要領で、壁面に下絵ができるわけ。
今回の展示室では、見やすいようにレプリカが置いてあるので、じっくり見てください。輪郭線に沿ってなぞった跡が見られます。下絵をなぞった時にできた溝だそうです。

精巧なレプリカで細部がわかる
3.古い古墳、新しい古墳?
さて、話題のキトラ古墳ですが、私は前から疑問がありました。
先週は、大阪・河内の古墳群を歩いてきたのですが、応神天皇陵とか、奈良の箸墓古墳とか、ああいう代表的な古墳を見ると、こんな感じですよね。

古市古墳群の地図(「百舌鳥・古市古墳群ホームページ」から引用)
これを見ると、それぞれの古墳の向きがバラバラ。つまり方角は気にせず造られた。
そこいくと、キトラ古墳は、ご存じのとおり、東西南北きっちり調整してあって、方角が重要視されている。
同じ古墳でも、ぜんぜん違いますよね。
そのへんを、キトラ古墳事業に携わる建石徹さん(文化庁古墳壁画室)に聞いてみると、いたってシンプルなお答えが返ってきました。
「(キトラ古墳は)古墳時代の古墳とはちがうんです」
言われてみれば、そうですよね。頭でわかっていたつもりだけど、これで実感がわきました。古墳は、古墳時代だけのものではないってこと。
古代日本、弥生時代から古墳時代を経て、仏教が入ってきて蘇我馬子だ聖徳太子だって時代があって日本がどんどん変わってくんだけど、ずっと古墳は造られていた。
キトラ古墳は、そうした時代の最末期、奈良に藤原京という都が建設された時代(白鳳時代)に当たる。聖徳太子が亡くなって70年以上経ってます。
そのころは遣隋使や遣唐使で中国の文化思想が入っていて、中国の陰陽五行説が時代のトレンドだった。これが風水みたいに方角をすごく重視するので、古墳の作りもこれに倣ったというわけ。
ばかでかい古墳造りを規制する「薄葬令」が出たのが大化2年(646)。そのころはもう、墳丘の威容で権力を示す必要がなくなり、こぢんまりした「モダン古墳」が出てきたようです。

キトラ古墳はこんな形(円墳)だったそうです
ぼくが子供のころからあこがれた飛鳥の世界は、仏教文化が始まった土地ですが、埋葬にはやっぱり「古墳」が必要だった。
現代人の感覚だと、「お寺=墓地」と思いがちです。
ぼくも子供のころから、「なんでお寺を造った蘇我馬子が寺じゃなくて石舞台古墳に入ってるの?」と、じつに素朴な疑問をもっていました。
その答えがわかったのは大人になってから。お寺はそもそも、祈願所であり、学問機関であって、お墓は無かった(今も奈良あたりの古寺などはそうですね)。
むしろ、重大な穢れである「死」は、遠ざけるべきものだった。神道と同じ「穢れ」を避ける意識ですね。
だから、蘇我馬子さんはお寺を造ったけど死んだら古墳に入ったんですね。
キトラ古墳は、すでに仏教文化華やかな時代に造られたお墓で、都である藤原京の真南に位置しています。その位置関係から、朝廷に関連する重要な人が葬られていただろうとのこと。ここでも風水(陰陽五行説)的な考え方が見受けられますね。

展示室入口の航空写真。これがイメージを掻き立てます
そんなわけで、今回の展示では、時代が飛鳥から奈良に移り変わるころの、白鳳時代のようすを想像しながら、壁画に向き合うと、より実感が湧いてくるんじゃないでしょうか。
最後に、「馬子と石舞台」というタイトルの一曲をどうぞ。
♪彼もまた 古墳に眠る・・・
子供の頃の素朴な疑問を歌にした、オリジナルの古代史ロックであります!
長文おつきあいありがとうございました。
「特別展 キトラ古墳壁画」
2014年4月22日(火)〜5月18日(日)
東京国立博物館 本館 特別5室
http://kitora2014.jp