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先日行ってきた、舞踏と音響のパフォーマンス「逢魔時(おうまがとき)」の公演観てきました。
舞踏家のazumaru(東丸)と音響家のtakuya(寿島宅弥)に、演出:松下千暁が加わったユニットです。

撮影:松下千暁
この演目は今回三回めの公演で、毎回趣向が変わります。
三回とも観ましたが、今回が一番よかったんじゃないかと思います。
映画エイリアンでいうと「ド派手なエイリアン2もいいけどエイリアン3も深みがあって好き」みたいな感じ(笑)
一見シンプルでじつに深い江戸前寿司のような印象。
といっても、わけわかんないよね。
メンバー3者が自分の仕事をきっちりこなして、決して邪魔せずお互いに引き立てあってました。
余計なものを削ぎ落として、
「オレたちが表現したいものはそもそも何なんだ」というところを徹底的に洗い出したように思います。
そのぶん、見ている側にも伝わるものが多かった。
見ているうちにストーリー的なものが勝手に自分の脳内で創り上げられるのですが、これも
メンバーの演技によって「創り上げさせられている」わけです。
観る人それぞれの解釈で、たしかに興味深いストーリーが展開されていくのです。
舞踏家のazumaruは、いつもよりボディが引き締まっているよう。
それでいて、今まで以上に肉体を酷使するパワフルな演技。
そして、白塗りをせず素のまんまの肉体をさらけ出し、より生々しくAzumaruという一人の男の存在を感じます。
挫折を含め数々の体験が創り上げたAzumaru自身の心と身体が、演技の深みを感じさせて、
これまで肉体の美しさが際立って印象的だったのに比べて、今回は肉体の奥にある精神性を強く感じさせるように思いました。
それは伝統的な舞踏の範疇を超えていて、いわばたんなるダンサーというより演技者としてのAzumaruがそこにいました。
Azumaruと絡む「演者」がエレキギター。この楽器は、
「放っておくと際限なく音を発し続ける」という点でほかの楽器とまったく異なる特徴をもっています。
この特性がうまく発揮されて、意図せざる音がAzumaruの演技にアクセントをもたらします。
偶然にまかせるだけでなく、これを上手にコントロールするのが、音響を担当するtakuyaの技。
手を入れすぎず最大限の効果をもたらす、絶妙な「音響芸」は今までより磨きがかかっていました。
Azumaruとtakuya2人の表現を、高度な完成品に引き揚げたのは、演出した松下千暁の功績が大きいんじゃないかと推測します。
観客にちゃんと「伝わる」表現というのは、第三者の眼が必要不可欠です。
きっと3人でいろんな意見交換をしたんでしょう。本番では照明を担当。
波打つシルエット、動きにシンクロした暗転など、これも非常に効果的でした。
これからが楽しみなユニットです。
2005年、彼らと共演できたことを誇りに思います。
ブログ内記事:
音と舞踏パフォーマンス 「逢魔時」初演の写真レポ
関連サイト:
宮澤やすみの神楽坂ニッポンライブ
2009年、小唄ライブと舞踏。ありえないコラボ(笑)
宮澤やすみ 舞踏+ボディペインティング
2005年のコラボ出演。みんな若かった?